Polo British Country Spirit

[POLO BCS CUP]日英交流ポロ元年、ロンドンでの騎馬打毬の演舞


日本の伝統武芸「騎馬打毬」

人と人とを、馬が繋いでいく ― これまでにも数え切れないほど感じてきたこの感動を、今年は英国ロンドンのポロ競技場で抱くことになった。 イギリスには数十のポロクラブがあり、ロンドンにも郊外に「ハム・ポロクラブ」がある。そこで6月10日、日英交流ポロ試合と、日本の伝統武芸「騎馬打毬」の演武が披露された。ポロと騎馬打毬、どちらもルーツは同じとされている。
起源の説はさまざまだ。最も有力な説は、イランとトルコの遊牧民によるシンプルなゲームとして始まり、それがペルシャ(現イラン)に紀元前247年から紀元224年頃に入って王侯貴族のもとで大きな支持を得、他の国々へ広まっていったというものだ。それがシルクロードを経由して唐時代(618-907年)の中国へ、やがて日本にも伝わった。
日本でのそれは、まずは「(人が地上で行う)歩ほだきゅう打毬」が輸入され(最初の記録は727年)、やがて武士階級の娯楽として騎馬打毬が始まったという(初の記録は955年)。宮廷行事の1つとしても行われるようになったが、987年の記録を最後にいったん途絶えてしまう。
ところが江戸時代の中期、8代将軍・徳川吉宗(1684-1751)により復興する。彼は寂れていた流やぶさめ鏑馬などと共に武芸奨励のために普及させ、それが江戸を往復する藩士たちによって全国へ広まっていく。ただ、明治時代の文明開化により、騎馬打毬はまたもや廃れていった。
だが、伝統を継いでいこうとする人はいた。その1人が八はちのへ戸藩の8代藩主・南部信のぶまさ真(1780-1847)である。
(現在の青森県)八戸には、平安時代から鎌倉時代にかけての武将・加賀美遠とお光みつ(1143-1230)による加賀美流の弓馬法術「騎馬八道」が伝わっていた。武芸のため流鏑馬などに力を入れていた南部は、騎馬打毬を八戸に、騎馬武術の訓練を目的に採り入れた。そして1827年、改築した長ちょうじゃさんしんら者山新羅神社の境内に「桜の馬場」を造らせ、その落成を記念して初の「加賀美流騎馬打毬」試合が奉納された。



以来、八戸騎馬打毬会によって継承され、県の無形民俗文化財に指定されている。日本での騎馬打毬は現在、宮内庁と山形県の豊ほうれつ烈神社でも行われているが、吉宗時代からの形式を踏襲しているのは、八戸でのものだけだそうだ。
約190年間、八戸で伝承されてきたこれは、紅白2組で行われる。各組4人の「武士」が騎馬し、先端に網のついた毬きゅうじょう杖を持つ。地上に置かれた紅白4つずつの毬まりを、両組が入り乱れて馬を御しながら馬場を回り網ですくい上げ、「味方」の毬門に投げ入れる。4つ全てを早く入れたほうが勝ちで、褒美として白い扇を賜る。
ロンドンのハム・ポロクラブでのお披露目は、八戸騎馬打毬会幹事長の山やまのうちたかし内卓さんが藩主代理役、武士の役を板橋正直さんと前田智久さんが務めた。八戸の南部打毬会を支援する会が市民らに寄付を呼びかけての遠征で、衣装や鞍、毬杖などは八戸から持参した。馬は、地元では北海道の和種と南部馬を掛け合わせた馬を使っているが、ハム・ポロクラブのポロ用ポニーを借りた。
当日のハム・ポロクラブには、鶴岡公二駐英日本大使も来場。大きな宣伝はしていないのに在留邦人だけでも約100名の観客が集まり、彼らはその前で初の海外遠征とは思えないほど堂々と演武した。馬はとても柔軟に騎馬打毬に対応してくれ、トレーニングの質の高さに驚いたと、騎乗した2人が口を揃えていた。
騎馬打毬 ― 日本の伝統の1つでありながら、おそらく知っている日本人のほうが少ないのではないだろうか。
山内さんが、顔を綻ばせて言った。 「ポロと騎馬打毬は、人間の歴史と共に、馬と競技の変化の末にたどり着いた形。起源を同じくするものが何世紀も経てロンドンの地で『再会』でき、歴史的な意義を感じました。八戸のこの伝統武芸は私自身の誇りでもあり、古式ゆかしきまま受け継がれてきました。(今回のような機会を得て)より多くの人々に興味を持ってもらうことによって、これからも人と馬を育て続けていくことが、そして伝承していくことができます」
ちなみに山内家は350年続く地方豪族で、祖父は1959年日本ダービーの2着馬カネチカラの生産者、父・正孝氏はJBBA日本軽種馬協会の元副会長で青森県獣医師会の会長なども歴任してきた人物。日本の競馬産業とも深く関わってきている。


ロンドンでの初の日英交流ポロ

ポロは、騎馬した選手が手に持つ木槌で、相手のゴールにボールを打ち入れて得点するゲームだ。馬種はポニー、各チーム4人のライダーが腕を競い合う。
 近代ポロは、北インドのマニプール州に由来するそうだ。もっともそれは英国人によるものらしく、1833年にアッサムの町に最初のポロクラブが設立されるとその翌年、英国にポロが導入された。
 今回行われた日英交流試合は第1回で、タイトルは「Polo BCS Cup」。BCSとは「British Country Spirit」の略で、アパレル会社「ポロ・ビーシーエス(株)」の社名である。本社は大阪で、1869年にニット製品を製作する会社として生まれ、1913年からは英国に商品を輸出。その後、会社名の変更などがあり、現在のポロBCSはグループ企業の共同出資により1989年に誕生した。ただし、「Polo」は英国テイストの自社子供服ブランドとして1968年からスタートさせており、混同されやすいラルフ・ローレンのほうが日本での設立は後で、日本での商標はBCSが持っている。
 取締役の高井春彦さんによると、7年前からBCS は「(実際の)ポロのノウハウや考え方を学びたい」と、ハム・ポロクラブとアドバイザリー提携を結び、日本国内でのポロ競技の紹介とアクティヴ・ラインの洋服の販売も開始。そんな中、「馬文化に関わる人々との縁ができ、八戸の騎馬打毬を毎年見に行くように」なり、騎馬打毬をハム・ポロクラブへ紹介するに至ったのだった。
 そして「ポロを学ぶ場として日本人がここでプレイできるように」との願いを込め、ポロ・ビーシーエス・カップを開催。高井さんやポロBCS、ハム・ポロクラブのチェアマン、ハワード・デイヴィスさんや廐務員まで含む多くの人々の、馬に対する情熱と交流を楽しもうとする気持ちと心意気が、交流試合と騎馬打毬の披露に繋がったのだった。
 ポロ・ビーシーエス・カップのトロフィは、BCSが寄贈。柘植の木で製作されたポロ姿の人馬が、日本の国花と言っていい桜花が彫られた台座に載っている。


馬とポロへの情熱と信念

今年、日本人プレイヤーは1人だけだった。日本人にはそれほどポロをする人がいないわけだが、日本チームの残りの3人をハム・ポロクラブのプレイヤーが構成してこの試合を成立させてくれた。
 日本人プレイヤーは、神奈川県三浦海岸でホース・トレッキング・ファームを経営する吉村優一郎さんだった。中学3年の時に馬術を始め、札幌競馬場の乗馬少年団に所属した。以降、騎馬スタントマンもしてきたし、岩手の遠野でJRAの新馬調教にも携わっている。馬が縁で知り合った妻君は、橋田満調教師の長女・聖子さんである。
 彼がポロに乗ったのは3年前が初めてで、それがここハム・ポロクラブでだった。「ポロ・ポニーの感覚や反応は、他の馬とは違う。恋に落ちました」と、破顔する。
 「2ヶ月間、ここの廐務員宿舎に滞在して馬の世話からプレイまで一緒にさせてもらった。ありがたいのは、新参者なのに技術を認めてくれるや全て任せてくれたこと。昨年はマネージャーの紹介でアルゼンチンにも行き、2つの牧場に滞在し、試合にも出させてもらいました」
 吉村さんのレベルが高いからこそだろうが、彼は「馬がいれば何でもできる」というぐらい馬を愛し、また、ポロができる場所を日本にもと、その実現に向けて尽力しているところだ。
 「馬は、自分の心を映す鏡です。心がクリアなら馬も動いてくれる。馬に対して、誠実でありたいと思っています」
 第1回BCSカップは、日本チームが勝利を収めて盛り上がった。だがそれだけでなく、国やスポーツの種類を超えて人と人とが馬を軸として繋がっているのを、しみじみと再認識した日ともなった。

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